夏目漱石の肖像写真(1912年) 写真: Wikimedia Commons (パブリックドメイン)
特集

夏目漱石の生涯

養子に出された少年時代、ロンドンでの神経衰弱、迷い込んだ一匹の猫、そして辞退した博士号。エピソードで辿る、国民作家のほんとうの顔。

生涯

1867年
江戸・牛込に生まれる。生後まもなく里子に、翌年塩原家の養子に出される。
1876年
養父母の離婚により、9歳で夏目家に戻る(復籍は21歳)。
1893年
帝国大学英文科卒業。松山・熊本で英語教師を務める。
1900年
文部省留学生としてロンドンへ。孤独な研究生活で神経衰弱に陥る。
1905年
『吾輩は猫である』を発表。38歳で文壇デビュー、一躍人気作家に。
1907年
東京帝大の職を辞して朝日新聞社に入社。職業作家となる。
1910年
修善寺の大患。胃潰瘍で大吐血し、生死の境をさまよう。
1911年
文学博士号を辞退。「ただの夏目なにがし」を貫く。
1916年
『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し死去。享年49。

「いらない子」だった国民作家

夏目漱石、本名・金之助は、慶応3年(1867)、江戸・牛込馬場下横町の名主の家に、五男として生まれた。両親にとっては恥ずかしいほどの高齢での子で、生後まもなく里子に出され、1歳で四谷の名主・塩原家の養子になる。ところが9歳のとき養父母が離婚し、実家に戻された。それでも実父と養父の対立から、夏目家に正式に復籍できたのは21歳のときだった。

幼くして「自分はどこの家の子なのか」が定まらなかったこの経験は、のちの作品に流れる孤独と自我の問題の底流になっている。自伝的小説『道草』には、養父母とのいきさつが色濃く反映されている。

「漱石」という負け惜しみ

ペンネームの「漱石」は、中国の故事「漱石枕流(石に漱ぎ流れに枕す)」から取られている。言い間違いを指摘されても「石で口をすすぎ、流れを枕にするのだ」と強弁した男の話――つまり「頑固者・負け惜しみの強い人」を意味する言葉だ。漱石は自らこの名を選んだ。自分の性分を誰よりもよく知っていたのである。

実際、負けず嫌いの逸話は多い。英語教師時代、授業中に懐に手を入れたままの生徒を注意したところ、その生徒には片腕がなかった。気まずさで済ませないのが漱石で、「私もない知恵を絞って授業をしているのだから、君もたまにはない腕を出したまえ」と返したと伝えられる。

ロンドンの憂鬱といちごジャム

1900年、33歳の漱石は文部省の留学生としてロンドンへ渡る。しかし物価は高く、英文学研究は「文学とはそもそも何か」という出口のない問いに変わり、下宿に閉じこもって本を読み続けた。真っ暗な部屋で泣いているところを大家に目撃され、留学生仲間からは「夏目発狂」の噂が文部省にまで流れたほどだった。1902年末、漱石は予定を切り上げるように帰国の船に乗る。

この陰鬱な留学生活の数少ない慰めが、当地のいちごジャムだった。スプーンですくって舐めるうちに、ひと月で8缶を空けたという。帰国後もジャム好きは治らず、医者に止められるほどで、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が細君にジャムの舐めすぎを咎められる場面は、ほとんど自画像である。

名前のない猫が、人生を変えた

帰国後も神経衰弱に苦しむ漱石の家に、1904年の夏、一匹の黒い猫が迷い込んでくる。追い出しても入ってくるので、そのまま飼われることになった。名前は最後までつけられなかった。この名無しの猫を語り手に、高浜虚子のすすめで書いた小説が『吾輩は猫である』。38歳での文壇デビューは大評判となり、教師・夏目金之助は作家・夏目漱石になった。

恩人ともいえるこの猫が1908年に死んだとき、漱石は門下生たちに黒枠の「死亡通知」のハガキを送っている。文面には「主人『三四郎』執筆中につき、御会葬には及び不申候」。命日の9月13日を、漱石山房では今も「猫の命日」と呼ぶ。

新聞社に「就職」した男

1907年、漱石は東京帝国大学の職を辞し、朝日新聞社に入社する。大学教授への道を捨てて新聞社の専属作家になるのは、当時としては破天荒な転身だった。以後の作品はすべて新聞連載として書かれ、『三四郎』『それから』『門』の前期三部作、『こころ』『道草』『明暗』へと続く。日本の「職業作家」はここから始まったといっていい。

1910年には胃潰瘍の療養先の伊豆・修善寺で大吐血し、30分間意識を失う「修善寺の大患」に見舞われる。九死に一生を得たこの体験の記録が随筆『思い出す事など』で、死の淵から見た風景が静かな筆致で綴られている。

「ただの夏目なにがし」として

1911年、文部省は漱石に文学博士号を授与すると通達した。当時、博士号は最高の栄誉である。しかし漱石は病床から辞退の手紙を書いた。

ただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。

博士号辞退の書面より(大意)

権威を嫌い、肩書のない一個人であろうとしたこの態度は、講演『私の個人主義』で語られる「自己本位」の思想と地続きである。1916年、『明暗』を連載途中に残したまま、胃潰瘍の悪化により49歳で死去した。

代表作

木曜会 — 漱石をめぐる作家たち

1906年から、漱石の家には毎週木曜の午後、教え子や若い文学者たちが集まった。世に言う「木曜会」である。物理学者にして随筆家の寺田寅彦、『赤い鳥』を創刊する鈴木三重吉らが常連となり、晩年には学生だった芥川龍之介や久米正雄も加わった。漱石は死の直前、芥川の『鼻』を激賞する手紙を送り、若い才能の背中を押している。

おまけ:「月が綺麗ですね」の真相

「漱石は I love you を『月が綺麗ですね』と訳した」——あまりに有名なこの逸話、実は漱石自身の文章にも同時代の記録にも典拠が見つかっておらず、後世の創作である可能性が高い。とはいえ、直接的な言葉を避けて情緒に託すこの「訳」が漱石の名とともに広まったこと自体、彼の文学が私たちに残した印象を物語っているのかもしれない。