高校時代の太宰治(1928年頃)1928
和服姿の太宰治(1936年)1936
銀座のバー・ルパンでスツールに座る太宰治(1946年、林忠彦撮影)1946
玉川上水のほとりに座る太宰治(1948年)1948
写真: Wikimedia Commons (パブリックドメイン)
特集

太宰治の生涯

芥川賞への4メートルの懇願、『走れメロス』を生んだ熱海事件、御坂峠の富士。弱さを書き続けた作家の、39年のエピソード。

生涯

1909年
青森県金木村の大地主・津島家の六男として生まれる。本名・津島修治。11人兄弟の10番目。
1923年
父・源右衛門死去。青森中学に入学し、実家を離れて下宿生活を始める。
1930年
東京帝国大学仏文科に入学。11月、鎌倉の海で心中未遂。相手の女性だけが亡くなる。
1933年
短編「列車」で初めて筆名「太宰治」を使う。
1935年
第1回芥川賞に落選。鎮痛剤パビナールの中毒に苦しむ。
1936年
第一創作集『晩年』刊行。薬物中毒の治療のため入院。
1939年
井伏鱒二の媒酌で石原美知子と結婚。安定期に入り『富嶽百景』『女生徒』を発表。
1940年
『走れメロス』発表。
1944年
故郷を旅して『津軽』を書く。
1947年
『斜陽』がベストセラーに。「斜陽族」が流行語になる。
1948年
『人間失格』を書き上げたのち、6月13日、玉川上水に入水。遺体が見つかった6月19日は誕生日だった。享年38。

大地主の家の、居場所のない子

太宰治、本名・津島修治は、明治42年(1909)、青森県北津軽郡金木村の大地主の家に生まれた。県下有数の富豪で、父は貴族院議員も務めた名士である。11人兄弟の10番目。病弱な母に代わって乳母と叔母に育てられ、後年「私は両親の愛を知らずに育った」という意識を生涯引きずることになる。

成績は抜群だった。青森中学では級長を務め、弘前高校から東京帝大仏文科へ。しかし「大地主の子」であることへの負い目から左翼運動に関わり、挫折。フランス語はほとんど読めないまま仏文科を選び、大学にはほぼ通わず、卒業もしなかった。生家への罪悪感と自己否定——のちの太宰文学の通奏低音は、この時期にすでに流れ始めている。

「芥川賞を、私に下さい」

1935年、「逆行」が第1回芥川賞の候補になるが、落選。選考委員の川端康成が「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評したことに激怒した太宰は、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と公開の誌面で嚙みついた。

ところが翌年、第2回選考を前にした太宰は、選考委員の佐藤春夫に宛てて長さ4メートルの巻紙に毛筆で手紙を書く。「私を助けて下さい。佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい」——当時の太宰は薬物中毒と借金で追い詰められていた。結果は「受賞該当者なし」。そして第3回では、選考委員会が「前回までの候補者は除外する」と決め、太宰の芥川賞は永遠に消えた。この顛末を知ってから読む「道化の華」は、いっそう痛切である。

熱海事件 — 『走れメロス』の意外な原点

1936年の暮れ、熱海の宿にこもって執筆していた太宰のもとへ、友人の檀一雄が金を届けに来た。ところが太宰はその金で檀と飲み歩き、宿代はさらに膨らむ。「菊池寛に借りてくる」と檀を人質に東京へ戻った太宰は、数日経っても帰ってこない。業を煮やして上京した檀が見たのは、井伏鱒二の家でのんきに将棋を指している太宰だった。

待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね。

熱海事件の際、檀一雄に言ったとされる言葉

後年、檀一雄はこの一件が『走れメロス』の発端になったのではないかと書いている。友を人質に置いて戻らなかった男が、「走れ!メロス」と自分を叱咤し、待つ友のもとへ走り抜く物語を書いた——そう思って読み返すと、あの疾走は他人事ではなくなる。

御坂峠の富士と、再出発

薬物中毒、入院、心中未遂——どん底の太宰を立て直したのは、師・井伏鱒二だった。1938年、井伏は太宰を山梨・御坂峠の茶屋に呼び寄せ、甲府の石原美知子との見合いの席を設ける。太宰は井伏に「結婚誓約書」を差し出した。「再び破婚を繰り返した時には、私を完全の狂人として棄てて下さい」。

翌年結婚。生活は安定し、「富士には月見草がよく似合う」の一節で知られる『富嶽百景』、少女の一日を一人称で描き切った『女生徒』など、明るく端正な中期の名作が次々に生まれた。破滅の作家というイメージの陰に隠れがちだが、太宰の本領はこの時期の短編にあるという読者も多い。

『斜陽』と無頼派の時代

敗戦後、価値観が引っくり返った日本で、太宰は一気に時代の寵児になる。没落貴族の家の四人を描いた『斜陽』は1947年のベストセラーとなり、「斜陽族」は流行語になった。坂口安吾、織田作之助らとともに「無頼派」と呼ばれ、既成の道徳へ斜に構えたその文学は、焼け跡の若者の心をつかんだ。

だが人気の絶頂で、体は結核に蝕まれていた。愛人・太田静子の日記をもとに『斜陽』を書き、山崎富栄との関係も深まり、家庭は軋む。1948年5月、自身の生涯をなぞるような告白体の長編『人間失格』を書き上げた。

玉川上水 — 誕生日に見つかった遺体

1948年6月13日深夜、太宰は山崎富栄とともに三鷹の玉川上水に身を投げた。遺体が発見されたのは6月19日——奇しくも39歳の誕生日だった。机上には『人間失格』の校正刷りと、連載を始めたばかりのユーモア小説「グッド・バイ」の未完原稿が残されていた。

命日は、遺作にちなみ「桜桃忌」と呼ばれる。毎年6月19日、三鷹・禅林寺の墓前には今も多くの読者が集う。墓の斜め向かいには、太宰が敬愛した森鴎外の墓がある。

おまけ: 憧れの人、芥川龍之介

太宰の芥川賞への執着の根には、芥川龍之介その人への強烈な憧れがあった。青森の高校時代、芥川の自殺の報に太宰は大きな衝撃を受ける。残されたノートには「芥川龍之介」の名が何ページにもわたって繰り返し落書きされ、頬杖をついた例の写真の真似をして撮った一枚まで残っている。憧れの人の名を冠した賞に落ち続けた男は、しかし今、芥川と並ぶ「最も読まれる文豪」になった。青空文庫でも、太宰作品の人気は不動の一位である。